海と島と人間と・・・・旅が好き!


by Satoe-Umeda
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落ち込んでいる

このところ2週間くらい、背中と腰が痛くて
毎日、「痛い!痛い!」

特に夜、眠る時が辛い。
布団に入ると痛さが増して、眠りにつけない。
痛み止めの薬は、全然効かない。
ホットパックをいたるところに貼り付けて
睡眠薬を飲んで、なんとか寝付けども、明け方には痛さで
目が覚めてしまう。
眠くて仕方ない。
暖めると少しはやわらぐので、
じっと、遠赤外線ストーブを背中にあてて、座り込んでいる。
猿みたい。
情けなくて、こんな痛い毎日ならもうこの世ともオサラバしたい。

整骨院で、マッサージと電気治療を毎日受け、プールにも週2回。
もちろん、腰痛体操も怠りない。
でも、痛い。

ストレスが痛さを強くしていると言われるけど、こんなに痛いと
痛いことがストレスで、悪循環。

猛暑の夏から、酷寒の冬まで半年も痛さが続いている。

でも、どうしょうもない。
落ち込んでいる。

今は1日をやり過ごすことだけで、せいいっぱいの毎日である。
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by satoe-umeda | 2008-01-23 13:27

どんど焼き

夕方「どんど焼きにいかない?」と友達から電話があった。
ン?どんど焼き?
子供の世界のお話にでてくるような・・。
私は都会育ちなので一度もみたことはなかった。
大礒で行われる、それは、大礒の海岸であちこちで、大きな火を焚き
それにお正月のお飾りやら、仏様や神様にお返しするものを焼く。
そして、「寒い冬に風邪を引かないように」と願いを込めて、2色に染められわけた
「お団子」を焼いて食べる。
お団子は針金に輪にして結び、それは長い長い、竹の枝やら木の枝に括り付けられている。
人の2倍ほどの背のある焚き火だから。
ちょうど、年男(?)たちなのか、村(?)の青年たちが、裸になって海で禊をした。
それから焚き火の周りをまわり、彼らが乗った、引き綱のついた「そり」みたいな
ものを、みんなで引っ張って、練り歩いた。
その引き綱を引くと、「風邪をひかない」というから、私も引いた。
大礒の「どんど焼きは市の無形文化財」だそうだ。
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by satoe-umeda | 2008-01-15 11:55


講演「金子光晴の思い出」    図書館フェスティバル95「生誕百年記念●金子光晴の世界」
                     平成7年9月17日・武蔵野市立中央図書館
                        梅田智江


梅田です。始めに白状してしまいますが、私は「講演」なんてしたことがないのです。
人前で話しをするのが大の苦手で、まさかこんな日が来るとは夢にも思わなかった。
ミスキャストではないかと心苦しいのですが、そおいう人間がこの仕事を引き受けたのは晩年の金子さんとのお付き合いに、ぎりぎり間に合った世代だからです。金子さんとおつきあいしていた頃は私が24から30の6年間でした。つまり生前の金子さんの思い出を話せる世代としては、多分、最も若い世代に属していて、そして女でもあるということで、当時の若い女の見た「金子光晴の思い出」を聞いていただくのもいいかなと思ったからです。



ところで、講演といえば、金子さんには、壇上に立つことは立ったが、一言も喋れず、、頭をひとつ丁寧にさげて、静かに楽屋に引き上げたということがありました。
おおよそ5年に渡る東南アジア、ヨーロッパでの無銭旅行というか、放浪の旅から帰って、1年後に新聞社の講堂であった「金子光晴帰朝講演会」のことで、金子さんが39歳のときでした。また、これも聞くところによると、昭和25、6年のころか「現代詩人会」の主催で、読売ホールで、三好達治などが喋り、そこに金子さんも出てきて、演壇の前で、しばらくモジモジしていたけれど、「今日はなにも喋ることがないからやめるわ」
とかいって、やはり静かに楽屋に引き上げられたということです。
金子さんが56、7歳の頃です。
晩年の金子さんはたとえば聴衆が一人でもいれば、熱演サービスをされましたが、
その頃はサービス精神がなかったのかもしれません。
もちろん、私の知る金子さんは対談の名手であり、お話の名手でした。落語家の志ん生に、声も話ぶりもとても、似ていらっしゃいました。
後からテープを流しますので、聴いてみてください。

人の出会いというものは本当に不思議な気がします。
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by satoe-umeda | 2008-01-12 15:50

2回目

私は愛知教育大を卒業したのですが、東京に出てきて、新卒で始めて勤めたのが武蔵野市の本宿小学校でした。ここには2年しか勤めてなくて、後、東大和で1年勤めて先ほどもいいましたが、私は人前で話すのが、大の苦手で、教員生活はやめてしまったのです。
今日、来てくださったなかに、もしかしたら、私の教え子がきているのではないかと、5年生を受け持ちしたので、今では39歳ですね。さっきから、その年頃のかたはいないかと、ドキドキしているのですが。
アパートは吉祥寺東町にあって、暇さえあれば、北口のアーケードの中ほどにある、「さかえ書房」という古本屋さんに、よく本を買いに行きました。
後で知ったのですが、あの「さかえ書房」の看板の字は金子さんが書かれたものなのですね。
その「さかえ書房」で何気なく買った詩集、それが金子さんとの出会いを決めました。新谷行「水平線」。跋は金子さんでした。
「手を泥で汚す作品と、手をぽっぽにいれたままの作品がある。いい時代ならば、手を泥につっこむようなことをしないで書いたものを、作者も読者も納得することができるが、今日のように「から約束」の時代には、泥の味なしに痛み場所をさらさないで、ひとのこころをつろうということは、むつかしくなった」
金子光晴といえば、尊敬はしていましたが、はるかな文学史の上でのひとで、まさかこんなに身近なところに存在しているなんて思ってもみなかったのです。
そしてその跋は、グイと私のこころを引っ掴みました。
で、詩集の発行元が「あいなめ会」になっているのを頼りに、編集人の松本亮さん・・30日にここでワヤンの話をされる予定ですが・・作品2編を送り、以後1969年からその第2次「あいなめ」が休刊となるまでの、ほぼ1年間、私はこの金子さんを中心とした「あいなめ会」の同人になったのでした。



それで、私が始めて金子さんにお会いしたのは、この「あいなめ」の合評会の席でした。
合評会はいつも四谷の旅館で行われるのですが、その日、金子さんは、少し遅れていらして、襖を
からっと開けて入ってこられました。
集まったみんなが、はっと腰を浮かせかけると、「あい」とかるく頷かれて、それからヒョイと机の上に片足をかけたかと思うと、とんとんと片足で跳び六法で少しよろけ、あっという間に、向かい側の自分の席に着かれました。
その日は外は雨風が強く、荒く息をつきながら小首をかしげて、無事おさまった金子さんの肩も胸も濡れていて、意表をつく、そういった行動が少しもヘンじゃなくて、それにみんなに一斉に見つめられて、少しあがっているみたいな、はにかんでおられるみたいななにか可憐な風情でした。
紺地の着物のしたに薄茶だったか、下着がみえましたが、お洒落でとても垢抜けてみえました。

詩人というよりは、飄逸な感じがしましたので、落語家みたいな芸人、芸人というよりは貫禄がありまし
たので、やくざの長老。やくざの長老というよりは、律儀な感じがしましたので、職人。職人というよりは
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by satoe-umeda | 2008-01-12 15:48

3回目

洒脱な感じがしましたので、遊び人。遊び人というよりはやっぱり知的でしたので詩人。そんな言葉があれば、とびきり粋で上等な江戸人という感じでした。



その後、しばらくして、ひとりで吉祥寺のお家に伺ったとき、金子さんはちょこちょこと奥から出てこられて、「あ、あい。ま、あがっていらっしゃい」といわれ、奥に引っ込みながら、ちょいと襖の陰から半身をだして、にっとなんともいえない、不思議な笑顔で胸の辺で、ちいさく「オイデオイデ」のように振られました。
金子さんは、そんな風にときにおどけた仕草をなさるかたでした。
一人息子でいらっしゃる乾さんの奥さんの登子さんが、帰りの遅い金子さんを心配して、門の外に出て待っていると、金子さんが帰ってこられるのが見えて、登子さんが、凧の糸を引っ張る仕草をすると、着物の端を両手でピンと伸ばして、凧が舞い落ちてくるようにツッツッと走ってこられたというのを、何かで読みましたが、可愛らしいといったら失礼かもしれませんが、そういうところがおありでした。



金子さんは大体、初めての客は玄関横にあるおおきな応接間に通されます。
薄暗い黴臭いような応接間で、古色蒼然とした本が崩れるようにあって、ワヤンの人形とか古いジャワの壁掛なんかがありました。
で、お訪ねして2回目あたりからは、応接間ではなく玄関をはさんで丁度、応接間と反対側にあるのですが、3畳の小部屋の仕事場に通されることになりました。
ここで、金子さんの家のおおまかな間取りというか、雰囲気をもうしあげますと、その後、改築されてしまったのですが、この吉祥寺の成蹊大学前にございまして、昔の家ですので、ゆったりとした平屋でした。
例えば、玄関はたたきに続く、広いあがりがまちがあり、料理屋さんにあるようなおおきな衝立屏風が正面にでんとありました。
その奥に襖続きの和室が二つ。手前が奥様で作家であった森三千代さんの部屋で、森さんはそこにベットを置いて、寝ていらした。
森さんは昭和24年ころより急性関節リューマチに罹り、金子さんの亡くなられた2年後の昭和52年に亡くなられるまで、実の28年間も、そのご病気でした。
いつだったか、私がパンタロンというズボンで遊びに行きましたら、「森に見せてやって頂戴」といわれ、寝ていらした森さんにご挨拶したことがありました。
森さんはベットの上に背筋をピンと伸ばして、お座りになり、色の真っ白い、綺麗な小さなおばあちゃま
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by satoe-umeda | 2008-01-12 15:46

4回目

という感じでした。
私はその時、くるくると後ろを向いたりして、モデルみたいにして、そのパンタロンというものを見せた記憶があります。
で、金子さんはそのベットの傍に布団をひいて寝られるのか、枕元とおぼしきところには、本やらなにやらごちゃごちゃとなにやらおかれ、特大のカラーテレビなどがあって、お孫さんの若葉ちゃんやら、夏芽ちゃんが、ひっきりなしにいったりきたりしている。
ついでながらいいますと、金子さんは亡くなられる原因となった喘息発作の前も、テレビの最終ニュースが終わると、明け方まで、寝床で腹ばいになって原稿用紙に向かっていらしたそうです。

それで、先ほどの金子さんの三畳間の書斎の話になるのですが、失礼ながら、あれは昔の「女中部屋」というものではなかったかと思うのです。
というのも、障子だったか、それ一枚で隔てられた隣の部屋は、板敷きの食堂で、腰掛、テーブルがあり、、率直にいって大変うるさそうなところなのです。ここで、金子さんとの雑談をテープにとったことがあるのですが、後で戻してみると、食堂での息子さんやらお孫さんの若葉ちゃんの声が入っていて笑ってしまいました。
壁には古い漢書の類が今にも崩れそうに積んであり、その前にちいさな座り机があって、3人以上座るのはかなり困難という感じでした。
これが金子さんの書斎でした。
クーラーなんかもちろんなく、夏は暑く、冬は寒い。
冬はちいさな火鉢があったような記憶があります。



「あいなめ」が休刊と決まった70年にあいなめで一緒に同人だったワシオトシヒコと、のしいかみたいなぺらんぺらんの詩誌「うむまあ」を、わたしが編集人となって、創刊した。
その題字は金子さんに書いて貰いました。
「うむまあ」というのは、沖縄の詩人で金子さんの親友でも会った山之口獏さんの詩で「世はさまざま」と言う詩があって、「琉球にはいつも墓場の傍に立っていて、そこにきては泣き崩れる悲しい声や涙で育つという、うむまあ木という風変わりな木がある」と、唄われていて、そこから採った名前です。
ワシオさんは1号で辞めてしまい、そのかわり、私の中学時代の家庭教師であった梅田卓夫が同人となり、それでほぼ、1年後にだした第2号を持って、金子さんちに遊びに行くと、3日後に突然、金子さんから葉書が届きました。
「先日は失礼。うむまあ読みました。ワシオ君のかわりに僕を同人にしてください。懲りないでまた、遊びに来てください。この頃のうっとおしい天気。ご自愛を。毎金曜日は不在ですが木曜日は確実にいま
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by satoe-umeda | 2008-01-12 15:40

5回目

す。」
びっくりしました。こんな同人誌とも言えないような詩誌にはいろうというのですから。
喜んで返事を書きましたら、折り返し、花模様の封筒に入った手紙が届きました。
「拝啓。お手紙拝見。一人で雑誌を出していられるに意気に感じて、葉書を書いたのです。他意はありません。もちろん同人にしておいて下さっても良かったらそうしてください。他人、英麿くんも志願してます。主幹の梅さんは、いばっていてくださらないと困ります。庇を貸して主家をとるのでありませんから、その点を誤解なさらないように。同人費もあてにしていてください。多方面に具合が悪いことがあれば、それも言ってください。文学人同士、ものごとはっきりがいいと思います。今月、できたら来週の木曜日くらいに一度会って相談しましょう。よければ24日、木曜5時、吉祥寺駅、四つ角という(喫茶店)まで、来ていただけませんか」とあり、地図が添えてありました。



つくづくいい手紙だなあと思います。
孫ほどの歳の、それも超無名の小娘に、こういう手紙が書ける詩人がほかにいるでしょうか。
金子さんという方は、つまり詩人なんかという肩書きからも、年寄りとか何とかいう年齢からも、有名無名などというものからも、つまり外側のものから一切自由な方でした。

これは強調しすぎてもたりないぐらいです。
だからこそ、詩壇とは縁のない人達ばかりが集まった「あいなめ」とか、たったひとりで切り盛りしている「うむまあ」にはいられたのです。
私はこの話のはじめから、金子先生とは呼ばず金子さんといっていますが、それは金子さんが、そう呼んで欲しいといわれたからです。
「あいなめ」の同人の人たちにも、「僕のことを別格に扱われては困る。一緒に詩を書いていく仲間ということにして欲しい。だから先生とは呼ばないで貰いたい。自分の呼び方まで注文をつけるのはすまないが、なるべくならば金子さんと呼んでほしい。無理にとはいわないが、みつちゃんとでもなんとでも好きなように呼んでもらっていいが、先生とはよばないで下さい」と、いわれたそうです。
ちなみに金子さんは私のことを「梅ちゃん」と読んだり「さとえちゃん」と呼んでいました。
これは不遜に聞こえたら困るのですが、金子さんの前にいると、本当に伸び伸びできました。卑屈にもならず、背伸びをする必要もない。あるがままの姿でいられました。
これは驚くべき巨大な人格だと思います。

「うむまあ」でも、対談を2回、座談会を2回持ったのですが、1回目は児童文学者の斉藤隆介さん。
「八郎」とか「べろだしチョンマ」とかを滝平二郎さんの挿絵で絵本を書かれた方ですが、「職人衆昔話」
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by satoe-umeda | 2008-01-12 15:38

6回目

というのも書かれていて、これは職人の人達の聴き書きですが金子さんは「清水組」へのもらわれっこで、職人の世界をよくご存知で、また、お好きでしたので、私が企画で、金子さんの家で対談したのです。
この対談で今でもこころが痛むのは金子さんは、どんなときでも、玄関に出て見送られるのですが、斉藤さんがお帰りのとき、「はい、ご祝儀」といって、チリ紙に包んだお金をわたされたのです。本当なら編集人の私が気をまわさなくてはならないのに、気がつかなくて斉藤さんも「いやあ、金子先生からお金をいただくなんて」と恐縮されていました。
こういうことが多々ありました。
今でも申し訳なかったなあと心が痛みます。



小平での我が家での同人会は3回ほどでしたが、同人の佐藤英麿さんと連れ立って、その頃、我が家は6畳と4畳半だけの築ン十年の古家で、ものすごく汚かったのですが、実に楽しそうに参加されました。
2回目からは詩人の壺井繁治さんも、・・この方は壺井栄の旦那さんでもあるのですが・・同人になりました。金子さんは壺井さんとは戦前からの友達でしたので、これをきっかけにお付き合いを始められて、お二人で掛け合い漫才のように話が弾んでいたことを思いだします。
壺井さんも金子さんの後を追うようにして亡くなられましたけれど。
3回目は詩人の吉野弘さんなども参加されて総勢8人で、6畳の部屋びっしりでした。
「新潮日本文学アルバム」の「金子光晴」に、その時の写真が載っています。
で、こういった大勢の席になると、ほとんどお話にならない。
耳がお遠いということもあるのですが、自分があえてサービスしなくてもいい場になると、黙っておられる。フォーク歌手の高田渡を交えて吉祥寺の「ぐわらん堂」で座談会をしたときも、ほとんど壺井さんが、話をしていて金子さん静かでした。
で、我が家でのその同人会でも、金子さんはみんなの輪から外されて、ポツンと所在なさそうでしたが、いつも持ち歩かれる黒い肩かけカバンを持ったまま、お便所に入られたことがありました。
我が家はそのころ、汲み取り便所でした。
金子さんは2回もはいられて、どうしたのかなあと思っていたら、席に戻られて、にこにこ笑いながら、私の顔をみて、カバンの中から、万年筆を大きくしたようなペンライトをだして、「これで見ると、よく見えるの」と謎のようなことをいわれました。
今、考えても、よくわからない言葉です。

金子さんと浅草に2度ほど遊びにいきました。
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by satoe-umeda | 2008-01-12 15:36

7回目

若い頃よく遊んだ浅草がお好きなようで、実によくご存知でした。
柴又の「川千家」という料亭で、鯉料理をご馳走になり、金子さんはタバコはもちろんお酒も召し上がらないので、私だけに御銚子を何本もとってくださり、ご自分はお茶を飲んで、話されるわけです。
料亭の一室で、差し向かいでいるわけですから、気詰まりかというと、そおいうことは全くなかった。
私があまりにも子供だったせいでしょうか。
私がサンダルの紐が切れて困っていると、足元に屈みこんで、汗を吹き拭き、一生懸命結んでくださる。
思い出してみると、これは親子、あるいはおじいちゃんと孫という図でした。
いつだったか「僕がこうして、一緒に雑誌を出しているのも、僕が梅ちゃんが好きだからだ」とおっしゃられたことがあります。
なんとなく気があっていたことは確かな気がいたします。
冬の季節でしたか、例の3畳間に伺ったとき、当時はミニスカートが流行っていて、ぺたんと座ったら、スカートがずーつと、上のほうまであがってしまいました。そしたら金子さんは傍にあった私のコートを、ぎゅつと押し付けるようにかぶせて「こうしなくちゃ、いけないの」とテレているような清潔さでたしなめました。
晩年は「エロ爺さん」なんて週刊誌に書きたてられていましたが、実際はこんな姿でした。
それでも6年あまりのお付き合いのなかで、たった1度だけ動物的といっていいほどの、生臭いような、言ってみれば、オスといった感じの金子さんを感じたことはあります。やっぱり3畳間で話していたときですが、いつもの金子さんと違って無口なんです。私が話かけても黙っている。その時、部屋の空気が緊張するというか、息苦しいくらい凝縮した感じで、今でもその時の空気は覚えていますが、金子さんがなんだか剥き出しのオスそのものって感じで、老人ではなくて青年みたいな感じで体臭がむわっと、強まる感じで息苦しかった。その日はどうしてそおいう雰囲気になったのか、わかりませんし、また、どのようにして、いつもの金子さんにもどられたのか記憶にありませんが、さよならをして門を一歩でたとき、ほろほろと泣いた記憶があります。
なぜ、悲しいのかわからない。
とくにその夜、なにがあったわけでもないのに、多分、そおいう金子さんを見てしまったことが重くて悲しかったのだと思います。



もっとも、金子さんの思いがけない表情ということでは、よくこんなことがありました。
金子さんと初めて外であったときのことですが、葉書に書いてあった喫茶店「四つ角」に、そこに私が着いたのは、きっちり30分遅刻でした。
で、走るようにそこに行くと、店は運悪くお休みで、金子さんはその店の前で、着物姿で仁王立ちにたっ
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by satoe-umeda | 2008-01-12 15:35

8回目

ていらした。
両手を帯にしっかりとかけ、顔は上向き加減に虚空を睨んでいらした。周りは賑やかな雑踏があったはずなのに、なぜか私は金子さんが無人の荒野にぽっんと立っておられる錯覚に襲われました。
それほど、金子さんの周りには寂寥とした空気が流れていたのです。で、「ごめんなさい」と駆け寄った私に、金子さんはからりと表情を変え、それはいつもの優しい金子さんでした。

遅刻ということでいえば、金子さんは一度も遅刻をしなかった。
いつも時間より早くいらして「文集」という文字が刷り込まれた緑色のノートに、ウオーターマンの太い万年筆で、何か書き物をしていらした。
金子さんはどこででも書かれるひとで、書斎よりも喫茶店とか電車の中とか腹ばいになり枕元で書かれることが多かったそうですが、「お待たせしました」と近づくと、さっと隠すようにして、しまわれるのが常でした。
それで別れの時間が来ると、金子さんは「じゃ」と、手を肩の辺まであげて、くるりと背をむけて、少しよろめくような足取りで帰られるのですが、その後ろ姿がものすごく寂しいのです。なんと表現したらよいのか。周りの風景が一瞬、みんな白茶けて、写真のネガにされていくような、途方もない寂しさといったらいいのか。もう二度と「金子さん」などと呼び止められない孤独感が、その後ろ姿にあって、あんな寂しい後姿を私はそれまでに見たこともなく、亡くなられた後もありません。



最も金子さんはひとりでおられるときは怖いほど寂しげな人だったと思います。
あの3畳間でも、そおいう金子さんを見たことがあります。
私はかならずご都合を聞いた上で、伺ったのですが、時には呼べども叫べども家の中は閑として音のないことがありました。金子さんがいらしても、お耳が遠いので、私の声など聞こえるはずもなく、仕方なくあがりこんで、3畳間を覗きこんで、ギョツとしました。
そこに金子さんは座っていらした。
実に暗澹たる表情でほとんど呆然として。
外は薄暗く明かりもつけないその部屋のなかには地獄の亡霊でもさまよっているかの様な陰鬱ななにかがみなぎっていました。
そのときすでに長編詩「六道」の構想に全力をあげて、取り掛かっていらしたのだと思います。そのころ、机の上にはいろいろメモあって、なかでも一際大きく「六道」とあり、丸印がつけてあったからです。
肉体の衰えは一段と進んでいて、それでもなお断ち切れない創作への欲望が、青白い炎をあげているような、まるで鬼火のようでした。
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by satoe-umeda | 2008-01-12 15:29